息子の出世を支えた子煩悩な赤染衛門
紫式部と藤原道長をめぐる人々㉗
結婚当初は、衛門が倫子の屋敷で生活をしていたため別居婚だったらしい。衛門が他の男性と噂になっているのを聞きつけ、気を揉む匡衡の歌が残されている。
1001(長保3)年に匡衡が尾張守に任命されると、衛門はともに下向。この頃に、晴れていっしょに暮らすこととなったようだ。その後、ふたりは一男二女に恵まれるなど、夫婦仲は極めてよかったらしい。紫式部によれば、衛門は〝匡衡衛門〟と呼ばれていたという(『紫式部日記』)。これはつまり、ふたりがおしどり夫婦だったことを意味しているようだ。
1012(寛弘9)年に夫が亡くなると、衛門は子どもたちの教育に力を入れた。娘の一人は若くして亡くなったらしいが、もう一人の娘・江侍従(ごうじじゅう)は歌の才能に恵まれ、『後拾遺和歌集』に入集するほどの名手に成長した。
一方、息子の挙周(たかちか)に対しても比類のない愛情を注いだ。衛門は息子の昇進に心を砕き、主人・藤原彰子に口利きを頼むなど、自分の使えるあらゆる伝手を駆使して、その将来を確かなものにしようとしたらしい。挙周が昇殿を許された時には嬉し涙がとまらない様子を歌にしている。
挙周が病気になった際には、住吉明神の祟りとする説を真に受けて、身代わりになるから息子の命を助けてほしい、とする歌を詠んだ。「代らむと思ふ命は惜しからでさても別れむほどぞ悲しき」(『今昔物語集』)という歌がそれで、ただし、私が死ぬと息子に会えなくなるから悲しいとの思いも込めた和歌を住吉明神に奉納すると、挙周はたちまち病が癒えたという。息子を溺愛していた様子がうかがえる。
晩年の様子は定かではない。少なくとも1041(長久2)年に曾孫の誕生を祝う歌が詠まれたのを最後に、文献から姿を消している。
なお、ともに彰子に仕えた紫式部とは、当然面識があった。式部からは「格別に優れた歌というほどでなくても実に風格がある」「こちらが恥ずかしくなるほど立派な詠みぶり」などシニカルな表現も見受けられるが、一定の評価はされていたようだ。衛門には温厚篤実な人柄を伝える逸話が多いが、式部の言葉からも、その一端が見えてくる。
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